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  • 執筆者の写真rugsrang

バルーチの絨毯を織る村

更新日:2020年9月19日



 深い赤色と多彩なデザインが魅力的なバルーチの絨毯。一度、産地の村に行って織っている所を見てみたいと思い今まで二回、ホラーサーンの村を当たりをつけて長時間車に揺られて探したのですが、行ってみると違うタイプの絨毯を織っていたり、「前まで織っていたんだけど、今はやめちゃった」と言われたりで、残念ながら見つけることができませんでした。

 そして今回、三度目の正直で現在進行形でバルーチの絨毯を織っている村にたどり着くことができました。


 ビールジャンドから北東に50kmのアービーズ村へ。アフガニスタンまで40km位の所です。村に入って、通行人に絨毯を織る家をたずね、紹介された家にお願いして招き入れてもらえました。

 水平式の織機で織られるまもなく完成しそうな絨毯

 織ってる所を写真にとらせて欲しいと言うと、若いお嫁さんは恥ずかしがってNGだったので、「んじゃわたしがいくかい」みたいな感じでおばあさんがよっこらせと、織機に腰を下ろし、パイルを結び始めました。



 写真にも写っていますが、フィールド内の糸杉のモチーフだけはデザイン画がありました。ボーダー部の幾何学的な模様は、完全に織り手のイメージで織っているそうです。「このデザインは私のオリジナル」と得意げに話していました。


 このアービーズ村には絨毯を織る家は10軒くらいとのこと。数軒まわったのですが織られるデザインはいずれも、ベージュのフィールドに鳥か糸杉の模様、赤いボーダーに濃紺の幾何学模様でした。ぱっと見はほぼ同じに見えるのですが、ボーダーの模様は織り手によって違うわけで、織った家がどこかは識別がつくようです。


 「あなた方やこの村の住民はバルーチ族なの?」と訊くと、「いやいやみんなペルシア人だよ」との返事。

 バルーチの絨毯というとバルーチ族が織っていると普通は思うのですが、バルーチ絨毯に分類される絨毯が織られている(織られていた)範囲はイラン東部の北から南まで、さらにはアフガニスタンも含まれるのでとても広大です。そこに暮らす人々の民族的なルーツは多岐にわたるわけで一様ではありません。過去に遊牧していたバルーチ族からその絨毯のデザインに影響を受けたものが、それぞれの地域のデザインに繋がっているのかな、と思います。

 ちなみに、現在のイランでは「遊牧民」という生活形態を送る人はほぼ居らず、都市や村に定住しています。ですので、ギャッベ展などのうたい文句「遊牧民の織る絨毯」というのは、消費者に事実を誤認させている部分があります。

 もちろん、羊の群れを飼ってそれを生業とする牧畜は盛んにおこなわれていますので、イランを旅していると羊飼いは良く見かけます。車から羊飼いを見かけると、コインを放り投げてあげる風習がホラーサーン地域ではあって、お賽銭みたいな感覚で面白いです。

 この「羊の群れを追う牧童」の風景は日本では決して見ないのでとても異国情緒を感じてしまうのですが、「羊飼い」は大陸ではどこでもみられる風景なので、日本人独特の感覚なんだろうなと思います。




このアービーズ村から仕入れた絨毯の内の一枚

 

 アービーズの家々で織られたバルーチ絨毯は、実際に敷いて使っていたり、部屋の隅にうずたかく積んで在庫になっていたり。そんな中から数枚を選んで持って帰りました。


 面白かったのは、私が価格を家のおやじさんに聞くと、織った人が決めなさい、とのことでお嫁さんに価格交渉をさせたこと。普通価格の話は家長がするものなのでちょっと珍しかったです。ですがお嫁さん、なんだかめちゃくちゃな値段を言い出して困りました。相場がよくわからなかったのか、外国では何倍もの価格で売れているという聞きかじった知識でふっかけたのか。私だってイランの絨毯商がどのくらいで仕入れているのかは分からないのですが、少なくとも絨毯商が売っている価格はわかります。結局は交渉してそれより少し安い位の価格で落ち着きました。

 

 帰りには少し観光しながらビールジャンドに戻りました。 

 観光客は少なく、まともなホテルは2軒しかないビールジャンドですが、この街と南ホラーサーン州にも見どころは結構あります。最後にスナップを何枚か紹介いたします。


ガーエン郊外の富豪の別別荘跡

ナシュティファーンの風車


ビールジャンド旧市街 旧ポストオフィスの建物

ビールジャンド旧市街 いまも使われているマドラサ(イスラム神学校)

二階から中庭を望む

マドラサ屋上の明かり取りの小塔


 

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